「ものうさと甘さが胸から離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しくも美しい名前をつけるのを、わたしはためらう。」 1
という一節からはじまる物語。
読むまでは授業でやったやつ!という認識で、そのあらすじから暗く重苦しい印象を抱いていたのですが、実際に読んでみると意外にもそんな印象はなく。
確かに重たさはあるのですが、印象に残ったのはお話の纏う雰囲気・空気感の心地良さでした。
ストーリーで起きた出来事だけ追うと「どこが面白いの?」と感じるたぐいの作品だと思います。
これはあくまで私の感覚での話なので、絶対とは言い切れないのが歯がゆいところですが…あらすじだけ見て「こういう話は苦手」と感じていた方にも一度トライしてみて欲しいなと思います。短くて読みやすいので。
私自身、長いこと食わず嫌いをしていたので、まさかこんなに好きな作品になるとは思っていませんでした。
あらすじ
17歳のセシルは、女性との浮名が絶えぬ父と二人暮らし。
その年の夏、セシルと父は、南フランスの別荘で休暇を過ごすことに。父の恋人エルザもくわえ、三人は自由で開放的な休暇を楽しむ。
そんな空気は、父の別の恋人アンヌが遅れて別荘にやってきたことをきっかけに一変。
"きちんとした" アンヌに父が本気で惹かれはじめ、セシルは父娘二人のゆるく自由な雰囲気が壊れていく予兆を感じとる。
これまでの暮らしが奪われることに恐れと抵抗を感じたセシルは、アンヌを父と引き離すためある計画を思いつく。
感想
情景描写の美しさ
まず、この作品の魅力の一つである情景描写について。
河野万里子さんの訳文の素晴らしさもあって、とても読みやすいです。
夏のうだるような熱気、けだるい空気が存分につたわってきます。
お気に入りの部分を抜粋してみました。
わたしは明け方から海に行き、ひんやり透きとおった水にもぐって、荒っぽい泳ぎで体を疲れさせ、パリでのあらゆる埃と暗い影を洗い流そうとした。
砂浜に寝ころび、砂をつかんで、指のあいだから黄色っぽくやさしいひとすじがこぼれ落ちていくにまかせ、<砂は時間みたいに逃げていく>と思ったり、<それは安易な考えだ>と思ったり、<安易な考えは楽しい>と思ったりした。
なんといっても夏だった。2
アンヌが顔も上げないので、わたしはコーヒーカップとオレンジを一個持って、ゆったり石段にすわり、朝の楽しみにとりかかった。
まずオレンジをかじる。口じゅうに甘い果汁がほとばしる。続いて、やけどしそうに熱いブラックコーヒーをひと口。それからまた、さわやかなオレンジ。
朝の太陽がわたしの髪をあたため、肌についたシーツの跡を消していく。3
海と砂浜、コーヒーとオレンジの爽やかな酸味、太陽の暖かさ。
ゆったりとした心地よい空気感に、読みながらなんとも癒されます!
この甘くてだらだらした心地よさはアンヌが影響を増していくにつれ失われていくので、セシルがアンヌに抱く複雑な気持ちや窮屈さにも感情移入しやすいです。
子どもあるあるな「大人への反発心」が招いた悲劇
以下、物語の結末に迫る重大なネタバレがありますのでご注意ください。作品が気になっている方は、読了後の閲覧をお勧めします。
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起きた出来事だけ書くと、悲劇という言葉がぴったりのストーリー。
自分に想いをよせる青年を利用して、エルザにちょっかいを出させ、父の嫉妬心を煽ることを思いつく主人公セシル。
目論見通りエルザを取り返そうとする父。それを目撃したアンヌ。
セシルの嫌がらせが、結果としてアンヌの自殺という予期せぬ事態を導いてしまいます。
また、アンヌが事故とも思える状況を選んで亡くなることが、なんともいえぬ余韻を残します。セシル親子が罪の意識を持ちすぎないように救いを残して(でも確かに消えぬ傷を残していって)アンヌは死ぬのです。
ストーリーだけ見るとやりきれないしスッキリしない終わり方です。
セシルの管理してこようとする大人への反感、自分がすることの影響を鑑みない浅慮ゆえの残酷さもリアル。
読みながら自分の10代の頃を思い出したのですが、当時は大人である先生たちや親にある種の「全能さ」を感じていたなと思います。
大人も私たちと同じように傷ついたり、苦しんだりする。
頭ではもちろんわかっていても、体格の違いや、与えられた役割の違いからどこかで「自分たちとは違う」と線引きしていた気がします。
主人公セシルもまた、アンヌの全能さを過信し、甘えていたのだと思います。
トリガーをひいたのはセシルだったけれども、セシル父の浮気性、アンヌの復讐心、すべてがぴたりと噛み合って生まれてしまったのが、アンヌの最期。
どろどろ人間ドラマとも言えますし、ストーリーラインだけ見ると個人的な好みとは違うのですが…
サガンが描きたいのは人間ドラマから引き起こされる感情であり(この話では悲しみ)その純度100%の悲しみにサガンは美を見出しているように思います。そこに惹きつけられるんですよね。
サガンの独特な悲しみの捉え方
要となる部分は、はじめと終わりの部分だと思っています。
最初の一節は既に引用しましたが、もう少し長く物語のはじめを引用。
ものうさと甘さが胸から離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しくも美しい名前をつけるのを、わたしはためらう。
その感情はあまりに完全、あまりにエゴイスティックで、恥じたくなるほどだが、悲しみというのは、わたしには敬うべきものに思われるからだ。
悲しみ――それを、わたしは身にしみて感じたことがなかった。
ものうさ、後悔、ごくたまに良心の呵責。感じていたものはそんなものだけ。
でも今は、なにかが絹のようになめらかに、まとわりつくように、わたしを覆う。そうしてわたしを、人々から引き離す。4
そして終わりがこちら。
夏がまた、すべての思い出を連れてやってくる。
アンヌ、アンヌ!闇のなかで、わたしは彼女の名前を、低い声で、長いあいだくり返す。
するとなにかが胸にこみあげてきて、わたしはそれをその名のままに、目を閉じて、迎えいれる。
悲しみよ、こんにちは。5
はじめの部分は、セシルが起きたことを振り返る形になっているので、どちらも時系列としてはアンヌが死んだあとのモノローグ。
ここでは、セシル(でありサガン)の悲しみへの思いが綴られています。
一般的に、悲しみは嫌なものです。できれば目を逸らし、見たくないもの。
ところが、サガンの描く悲しみは、どこか甘くて美しくて、絹のようになめらか。そして、迎えいれるもの…。
タイトルの「悲しみよこんにちは」に現れているように、抵抗するどころか、むしろいらっしゃいと歓迎するような響きがあります。
サガンの描く悲しみ方は、目の前で起こる事態に巻き込まれて精神がぐちゃぐちゃになっている感じとは少し違い、招き入れながらも距離をたもっている印象です。
例えるなら美術館で「悲しみ」というタイトルの絵画を眺めて「このブルーは美しいなあ」と冷静に分析しているような客観的な捉え方。
自分と悲しみを同化させず、悲しみを観察している自分でいつづけているというか。
だからこそ、重たいストーリー展開とからっとした空気が共存した独特な作品が生まれたのではと思います。
夏、海辺の別荘、南フランスでのバカンス、そういった要素の一つひとつが全て悲しみの美しさを引き立たせるために計算して配置されている気がします。
同じ出来事が起きても、この設定が少しでも違えばこの絶妙なバランスは崩れてしまう。
まさに芸術作品のような小説です。
これを18歳で書き上げたというサガン。すごすぎます。
サガンの生涯はスキャンダラスで波乱万丈なものだったとのこと。
老成した賢者のような達観した視点をもちながら、感情渦まくドラマチックな状況に自ら飛び込んでいくような生き方をされたところが、とても興味深いし面白いなと思います。
夏を感じたい時に開くお気に入りの一冊です。