結末にも触れた感想となっているので、気になっている方は読了後の参照をお勧めします。
空想を物語の重要なテーマに添えつつも、現実味の強いメッセージ性を持った物語でした。
重たいテーマであってもそれを不思議と感じさせず、読後感はスッキリ。
個人的にはちょっとした不気味さも含め好きな表紙なのですが、いくら好きとはいえ、正直真夜中にこの本の表紙と目があうのは避けたいですね…。
あらすじ
大人しい少年トリスは、家を出ていった母親がいつか帰って来ることを期待しながら父と暮らしています。その父に最近いい感じの女性ができていて、内心複雑な気持ちを抱くトリス。
ままならない現実のなか、トリスは強く男らしい、セルシー・ファイアボーンというオリジナルキャラクターを空想することで自分を慰めていました。
ある日、そのごっこ遊びに真剣に付き合ってくれる少女ウィノーラと出会うのですが、徐々にウィノーラの言う「追われている」という言葉が空想ではないことが判明します。
ウィノーラの父が、別れた妻とよりを戻そうと執拗にウィノーラを付け狙っているのでした。
感想
タイトルの「地下脈系」は、地下のトンネルが枝分かれしてはりめぐらされている様子を表したもの。
主人公トリスが住む場所には、この地下のトンネルがたくさんあり、トリスは空想の遊び場所としてここを使っています。
外からは見えないこの空間は、突然崩れて崩壊する危険性をはらみながらもトリスにとっては「安全」な場所でした。誰にも邪魔されない秘密基地として。
そこにウィノーラという少女が現れたことでトリスの世界が大きく変わり始めます。
物語では、ウィノーラの父オーソンがトリックスターとして重要な意味を持ちますが、この危険な、子どもに暴力をふるうことも顧みない大人の存在は『ヒーローの二つの世界』のミス・クレデンスを彷彿とさせます。
どちらも「銃」が重要な道具として登場していますが、二人の結末としてはこの『地下脈系』の方が救いのある展開となっています。
一番印象に残ったのはオーソンが自殺をほのめかす仕草をしながら、ケネス・グレアムの『たのしい川べ』のシーンを引用する場面。
「おれはほんとにくたびれた」
頭を後ろにそらし、ほほえんで、また銃身をのぞきこみながらオーソンが言った。
「穴のおくで、なにか、きらきらする小さなものが、小さな星のようにきらりと光りました」
オーソンは子どもにお話を読んでいるような声で言った。トリスはその文章を知っていた。それがどこにあるのか憶えていたのだ。
「いったい何でしょう?」オーソンはほほえみを浮かべたまま、あいかわらず銃身をのぞきながらたずねた。
「蛍にしては、きらきらしすぎるし、小さすぎます!」
「それは川ネズミだったのです」
セルシー・ファイアボーンが言った。セルシーがトリスの口を借りてしゃべるのはこれが最後だった。そのざらざらした声は同時に震えてもいた。
トリスは眼から涙があふれでるのを感じたが、これはセルシーの涙だとトリスは思った。恐怖からくる涙ではない。
トリスは自分がオーソンを見ている川ネズミで、川ネズミの眼が見ているのは傷つき、どうにもならないところまできてしまった生きものなのだという気がした。 1
かつて、オーソンにも子供時代があり、母親から『たのしい川べ』を読んでもらったことがあるということにトリスはこの時気が付きます。
トリスが泣いたのは、暴力的で危険な男であるオーソンの正体が「傷つき、どうにもならないところまできてしまった生きもの」だと理解したからなのでしょう。
全ての大人が、かつて子どもだった。
恐ろしい大人の男であるオーソンの中にいる傷ついた子どもをトリスは見抜くのです。
この時トリスは「子どもと大人」「被害者と加害者」といった全ての枠を超えて一つの存在としてオーソンと向き合っています。
トリスは臆病な性格で喧嘩も弱いという描写がされています。
だからこそ空想で強靭な強さを持つセルシーを作り上げるのですが、彼自身が気が付いていない強さが既に備わっているんですよね。
これはフィクションのお話ですが、作者マーヒーさんの「傷ついたもの」に対する慈愛に満ちた視点が発揮されたとても良いシーンだなと思います。
この世界において、傷つかないで生きてこれた大人なんていないでしょう。
マーヒー作品は、誰もが自分の中に秘め、時に置き去りにしてきた「子どもの自分」を思い出させてくれる気がします。
人間の心の暗い部分とその救済を物語として上手くまとめあげる手腕は鮮やか。
気が付けばここでもマーヒー作品の感想ばかり書いているくらい、一度ハマったら沼の世界が広がっています。
この方の物語に救われる人はたくさんいると思うので、更に多くの方に知られてほしい作者さんです。